悪戸新田獅子舞
Dairokuten

第六天のこと

ささらのふるさと・悪戸新田には、むかしから村をまもる神さま、第六天だいろくてんがまつられてきました。
第六天とは、どんな神さまなのでしょう。どこから来て、いまはどこにいらっしゃるのでしょう。
仏教の神さまだったころから、悪戸新田の氏神うじがみとなり、雀神社へうつって、いまも続くおまつりまで。順を追ってご紹介します。

ひとことでいうと

  1. もとは仏教の神さま。仏教の世界で「六番目の天」に住む王さまでした。
  2. 江戸時代から明治のはじめにかけて、日本の神話の六代目の夫婦の神さま、面足尊おもだるのみこと・惶根尊かしこねのみこととしてまつられるようになりました。
  3. 悪戸新田の氏神うじがみさまです。いまは雀神社の境内の獅子堂(第六天宮)にまつられ、保存会が年に二回、おまつりを続けています。

「第六天」って、なに?

「第六天」は、もとは仏教ぶっきょうのことばです。仏教では、わたしたちの住む世界の上に、いくつもの「天てん」(神さまたちの住む世界)が重なっていると考えました。

そのうち、まだ「ほしい」「楽しみたい」という気もち(欲)が残っている世界を「欲界よっかい」といい、欲界には六つの天があります。そのいちばん上、六番目の天が「他化自在天たけじざいてん」。これが「第六天」です。

仏教の欲界にある六つの天。下から数えて六番目が「第六天」です。

他化自在天は、「ほかの者がつくり出した楽しみを、思いのままに自分の楽しみにできる天」だといわれます。そこに住む王が「第六天魔王だいろくてんまおう」で、お釈迦しゃかさまが悟さとりをひらこうとしたとき、それをじゃましようとした、という話が伝わっています。

こわい名前ですが、それだけ強い力をもつ、ということでもあります。平安時代から室町時代にかけて、第六天は密教みっきょうや修験道しゅげんどうのなかで、仏教をまもる神さまとしても信じられるようになりました。鎌倉時代の『沙石集しゃせきしゅう』など、古い書物にも登場します。

コラム 織田信長と「第六天魔王」

第六天魔王の名を広く知らしめたのが、戦国時代の織田信長おだのぶながです。キリスト教を伝えに来た宣教師せんきょうしルイス・フロイスの手紙によると、武田信玄たけだしんげんが手紙に「天台座主沙門てんだいざすしゃもん信玄」(仏教の高いお坊さん、という意味)と書いてきたのに対し、信長は「第六天魔王信長」と書いて返した、といいます。ただし、この話はフロイスの手紙にしか出てこないため、ほんとうにそう名のったかどうかは、はっきりしていません。

日本の神さまになった第六天

江戸時代になると、第六天は関東の村々で、田畑や暮らしをまもる身近な神さまとして、さかんにまつられるようになります。

江戸時代の終わりごろには、日本の古い書物を研究する「国学こくがく」がひろまり、第六天を日本の神話の神さまと重ねる考えが出てきました。目をつけられたのが、『古事記こじき』『日本書紀にほんしょき』のはじめに出てくる「神世七代かみよななよ」の六代目の神さまです。

  1. 一代
    国之常立神くにのとこたちのかみ
  2. 二代
    豊雲野神とよくもののかみ
  3. 三代
    宇比地邇神・須比智邇神ふたりうひぢにのかみ・すひぢにのかみ
  4. 四代
    角杙神・活杙神ふたりつのぐいのかみ・いくぐいのかみ
  5. 五代
    意富斗能地神・大斗乃弁神ふたりおおとのぢのかみ・おおとのべのかみ
  6. 六代
    淤母陀琉神・阿夜訶志古泥神ふたりおもだるのかみ・あやかしこねのかみ=『日本書紀』では 面足尊(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)
  7. 七代
    伊邪那岐神・伊邪那美神ふたりいざなぎのかみ・いざなみのかみ
『古事記』による神世七代。三代目からは男女ふたりの神さまです。六代目のつぎが、日本の島々を生んだイザナギ・イザナミです。

六代目は、面足尊おもだるのみことと惶根尊かしこねのみことという夫婦の神さま。「六番目どうし」ということで、第六天と結びつけられたのです。名前には「(大地の)おもてが、すっかりととのった」「ああ、おそれ多い」という意味がこめられている、と考えられています。

そして明治元年(1868)、政府が神さまと仏さまを分けてまつるよう命じた「神仏分離しんぶつぶんり」で、仏教の魔王の名をもつ第六天は、そのままではいられなくなりました。多くの第六天社が、おまつりする神さまを面足尊・惶根尊にあらため、なかには名前ごと変えた神社もあります(たとえば東京・墨田区押上の高木神社は、もとは第六天社でした)。

国づくりの神、五穀豊穣ごこくほうじょう(作物がよく実ること)や夫婦円満の神として、また、強い力で悪いものを追いはらう神さまとして、第六天は人びとに親しまれてきました。

関東に多い、ふしぎな神さま

第六天をまつる社は、関東、とくにむかしの武蔵国むさしのくに(いまの東京都・埼玉県と神奈川県の一部)に集まっています。江戸時代から明治のはじめにまとめられた地誌(その土地の記録)には、つぎのような数の第六天社が記されています。

  • 武蔵国320あまり
  • 相模国140あまり
  • 伊豆国40あまり
『新編武蔵風土記稿』『新編相模国風土記稿』『増訂豆州志稿』に記された第六天社の数(『日本民俗学』127号の集計による)

西日本には、ほとんど見られません。なぜ関東に多いのかは、はっきりわかっていません。「信長をおそれた豊臣秀吉が、西日本の第六天をなくした」「織田に敗れた武田家の人びとが広めた」「小田原の北条家の家臣たちが、うつり住んだ先で広めた」など、いくつかの説があります。

古河は下総国しもうさのくにですが、悪戸新田は渡良瀬川わたらせがわをはさんで下野国しもつけのくに・武蔵国むさしのくにと向かいあう、三つの国のさかいにありました。明治11年(1878)には、悪戸新田と下野国の下宮村、武蔵国の川辺村を結ぶ舟橋がかけられ、「三国橋さんごくばし」とよばれました。第六天のふるさと・武蔵国は、まさに川の向こうだったのです。

悪戸新田の第六天

悪戸新田は、古河の船渡町の西どなり、いまの渡良瀬川の河川敷かせんじき、ゴルフ場のあたりにあった村です。村の氏神うじがみ(その土地をまもる神さま)が、第六天神社でした。

明治四十三年ごろの悪戸新田(略図) 古河の町から三国橋へ向かう道の両がわに家がならび、道ぞいに柳の並木がある。道の北がわの田畑のなかに第六天社。道から北へのびる参道の左がわに石碑がならび、境内の右がわに地蔵尊。西のはしに稲荷神社と三国橋、東は船渡町。南に悪戸の土手。四方固メの東西南北のおおよその位置に印がある。 渡良瀬川・思川 三国橋(舟橋) 古河の町へ→ 柳の並木 稲荷神社 参道 第六天社 村の氏神さま 地蔵尊 石碑 悪戸新田の家なみ 船渡町 卍 永井寺 田畑 田畑 悪戸の土手 北 西 東 南 北 ささらの四方固メ(明治のころ・おおよその位置)
← 横にずらして見られます →
明治四十三年ごろの悪戸新田。昭和60年に描かれた「悪戸新田略図」をもとに、わかりやすく描きなおしたものです(位置や大きさはおおよそです)。

略図を見ると、古河の町から三国橋へ向かう道の両がわに家がならび、道ぞいには柳の並木。第六天社は、その道の北がわ、田畑のなかにまつられていました。道から北へまっすぐのびる参道の左がわには石碑がならび、境内の右がわには地蔵尊がまつられていました。

ささらの朝は、悪い病気を追いはらうために東西南北へ舞う「四方固しほうがたメ」からはじまります。『古河市史』によると、明治のころの四か所は、東は船渡町との境、西は旧三国橋のたもと、南は悪戸の土手、そして北は第六天神社の北がわでした。ささらは、村の氏神のもとから四方をかためていたのです。

村が川になり、雀神社へ

明治の終わり、渡良瀬川の流れを整える大きな改修工事かいしゅうこうじがはじまりました。この工事で、悪戸新田の大部分は河川敷となり、舟橋の三国橋もその役目を終えました。それでも「三国橋」の名前は、いまも渡良瀬川にかかる橋に受けつがれ、国道354号の古河バイパスには「新三国橋」もかかっています。

村の氏神だった第六天神社は、雀神社の境内社けいだいしゃとして合祀ごうし・遷座せんざされました。合祀とは、ほかの神社にいっしょにおまつりすること。遷座とは、神さまのお住まいをうつすことです。村の土地は川になっても、人びとは第六天への信仰を手ばなしませんでした。

いま第六天神は、雀神社の境内にある獅子堂ししどうにまつられています。この獅子堂が「第六天宮だいろくてんぐう」です。獅子堂は昭和44年(1969)、ささらを残そうと、市や町の人びとから集めた127万円あまりの寄附で建てられました。獅子頭や太鼓など、ささらの道具もここにおさめられています。

いまも続く「お日待」

保存会はいまも、年に二回、三月二十四日と九月二十四日に、第六天神の「お日待ひまち」をおこなっています。

お日待とは、もとは前の晩から身を清めて集まり、夜明けの日の出を待って神さまをおまつりする行事です。いまでは、会員が獅子堂に集まり、雀神社の宮司ぐうじさんに祝詞のりとをあげてもらったあと、ささらの「宿」となる会員の家で、いっしょに食事をします。

宿には、大正九年(1920)に雀神社の加茂常堅宮司が書いた「第六天神」の掛け軸かけじくがかけられます。お日待は大正時代から有志によっておこなわれ、保存会ができてからは、会員が中心になって続けてきました。

ささらと第六天

ささらは雀神社のお祭りに奉納ほうのうされる舞ですが、その根には、悪戸新田の人びとが代々まもってきた第六天への信仰があります。ささらの一日をたどると、そのことがよくわかります。

  1. 朝四方固メ

    東西南北へ舞い、悪い病気を追いはらいます。明治のころ、北の地点は第六天神社の北がわでした。

  2. 日中町内をめぐる

    約30か町をまわって舞を奉納します。朝5時から、夕方までの長い道のりです。

  3. 夕方第六天宮の前で

    雀神社へもどり、第六天宮(獅子堂)の前でもう一度舞って、締めくくります。

ささらは、雀神社と第六天、二つの社に支えられているのです。

第六天のうつりかわり

  • 平安〜室町時代

    仏教、とくに密教や修験道のなかで、第六天が信じられる。

  • 戦国時代

    織田信長が「第六天魔王」と名のったと、宣教師フロイスの手紙に書かれる。

  • 江戸時代

    関東の村々に第六天がひろまる。武蔵国だけで320あまりの社が記録される。

  • 江戸時代の終わり

    国学のひろまりとともに、日本の神話の面足尊・惶根尊と重ねられていく。

  • 明治元年1868

    神仏分離。多くの第六天社が、まつる神さまや名前をあらためる。

  • 明治11年1878

    悪戸新田と下野国・武蔵国を結ぶ舟橋「三国橋」がかけられる。

  • 明治43年ごろ

    悪戸新田の道の北がわ、田畑のなかに第六天社がまつられている(略図より)。

  • 明治の終わり

    渡良瀬川の改修で村の大部分が河川敷に。第六天神社は雀神社の境内社として合祀・遷座される。

  • 大正9年1920

    雀神社の加茂常堅宮司が「第六天神」の掛け軸を書く。このころ、有志によるお日待もおこなわれていた。

  • 昭和44年1969

    寄附を集めて獅子堂(第六天宮)と記念碑を建てる。

  • いま

    年に二回(3月24日・9月24日)のお日待。巡行の一日は、第六天宮の前で舞い納める。

おもな参考資料

  • 『古河市史(民俗編)』「獅子舞」
  • 藤縄勝祐『残っていた第六天』(第六天の由来と全国の分布について)
  • 「悪戸新田略図(明治四十三年頃)」(昭和60年作成)
  • 渡良瀬遊水地と谷中村に関する資料(三国橋について)
  • 『古事記』『日本書紀』(神世七代)
  • 『日本民俗学』127号(第六天社の数)

※第六天の由来や、関東に多い理由には、いくつもの説があります。このページでは、おもな説をわかりやすくご紹介しています。